ceroとpetrolz

昨夜はJ-Waveceroとpetrolzのツーマンライブを観に六本木まで行ってきた。

もともとceroが目当てで行ったのだが、petrolzの迫力に圧倒されてしまった。

 

知り合いにpetrolzが好きな人がいたしあの浮雲さんのバンドだということもあり、音源をチェックしたこともあったが、その時はそれほど衝撃を受けなかった。

しかし、生で演奏を聞くとその音にすっかり魅了されてしまった。

スリーピースという非常にシンプルな構成のバンドであり、音自体も(素人からすると)そこまでいじくりまわしているような印象を受けない。だが、それでいてまったく物足りなさを感じることもない。必要十分な音楽の一つの完成形をみたような気がした。

ずいぶんと長いことスルーしてきてしまったが、これからは積極的にチェックしたいと思えるバンドだった。

 

一方のceroも相変わらずの素晴らしい演奏だった。新曲3曲を含めて、比較的最近の曲で構成されていたセットリストだった。にもかかわらず、音源とは一味も二味も違うようなアレンジがなされていて、常に進化し続けるceroの凄さを感じた。

petrolzの極限まで削ぎ落とされた音と対照的に、ceroは非常に多くの要素が巧みに組み合わされた音であった。彼らの凄さは、たくさんの要素を積み重ねているのにもかかわらず、その調和が失われない点にあると確認することができた。

 

主催者側が意図したものか否かは定かではないが、明確な対比基準がありながらも、両者をそれぞれにリスペクトした素晴らしいツーマンであったと思う。

 

「母数」という言葉

教養程度に統計的な学問をかじったことがある程度の人に多い間違いとして、母数という言葉の誤用がある。

 

例えば、こんな場面を見かける。統計的データを用いて論を展開する発表者に対し、「サンプル数が少なくデータとしての信頼度が低い」というような指摘があったとする。それに対して発表者は次のように答える。

「今後の課題として母数を増やして、信頼性の問題をクリアするつもりです。」

 

この用法は明らかに誤用である。おそらく、発表者は標本数のことを言っているのだろう。あるいは、高校までの教育における確率のイメージから、(約分する前の)分母に当たる部分の数を増やしますといったことを言いたいのだろう。(すなわち、標本数である。)しかし、母数という言葉は一般的に標本数に相当する意味を持たない。

 

母数とは、ある確率変数の従う分布関数の形状を特徴付けるパラメータである。(と少なくとも私は認識している。)よって、これを増やすという主張は全く意味がわからない。

 

悲しいかな、このような間違いは非専門の教授にも見られる。おそらく、その多くは不勉強というよりは、口癖としてそのような言い回しを使いがちであるといったようなものであると思う。しかし、そのような口癖を持つ人間が少なくとも統計に精通しているわけではないことは明らかである。

 

なんとなく専門的な用語は響きがカッコよく、長ったらしいコンセプトを短くまとめることが得意であったりするので使いたくなる気持ちもわかる。しかし、誰でも簡単に情報にアクセスできる時代だからこそ、専門用語を用いるときにはいつも以上に注意を払った方がよいのではないだろうか。

 

大標本理論を学びながらもなかなか進まぬフラストレーションを、こんな戯言として綴る。